記憶の輪郭 -Shape of Memento-

「記憶の輪郭 -Shape of Memento-」
人はそれぞれ「記憶」を持って、その「記憶」と目の前に広がる光景とを比べながら生きています。「記憶」は人それぞれのバックグラウンドを象徴します。そしてそのバックグラウンドは個々人の考え方や生き方など、様々なところに影響を及ぼすでしょう。
生まれ育った環境は、その「記憶」の種を形成する場所です。都市で育ったこどもならば、きっと心の中に形成される原風景は都市になるでしょう。反対に、森林に囲まれたような辺境の地で育ったこどもならば、きっと心の中に形成される原風景は大自然に囲まれた人間の小ささになるでしょう。その差異はそのまま、「自然とは何か」「人間とはどんな存在か」など、思考の根本を司ってしまうことでしょう。
そして、その種を持った人々は、大人になり、社会と接します。その過程でも「記憶」は層をなして重なり、増え続けていきます。その層は年輪のように幾重にも重なり、ふくらみを帯び、新しいイメージを形成していきます。そして、幾重にも重なった「記憶」の層を人は行き来しながら、目の前に広がる光景を把握しようとします。その行為はまるで長編映画の中を泳ぎまわるような、音と映像に満ち溢れた行為でしょう。

メンバーの一人、奥は、上に書いた「森林に囲まれたような辺境の地で育った」ようなバックグラウンドを持っています。人間が自然という環境に手を加え作り上げる摩天楼。そこには自然を掌握するように生きていく人間のすがたが映し出されます。その都市の巨大さ、成長のスピードに圧倒されながらも、彼が撮影する都市風景には人間そのものに対する懐疑が強く現れます。
対照的に、神田は、同じようなバックグラウンドを持ちながらも、辺境を撮り続けています。彼の写真からは、自然と人間が対峙するものとしてではなく、共存するものとして捉えられていきます。自然の中に人々が暮らし、人々は自然に溶け込むように日々を過ごしているーその光に受け入られた光景は、ひとつの幸せの原風景ともいえるでしょう。
また、斎藤は、都市にほど近い神奈川県に生まれ育ったバックグラウンドを持ち、都市と辺境の狭間にあるような地方都市を彷徨します。彼の写真からは、奥や神田とは違った人間と自然の距離感が見えてきます。寂れていく都市と、その隙間を埋めるように枝葉を茂らせていく木々。変化していく風景の先に見えるのは、両者の間にあるバランスの難しさなのかもしれません。
このように記憶の輪郭として立ち現れた映像から、各々の「記憶」の種は垣間見えてきます。

車窓を流れる景色は、多くの人は気にも留めない光景でしょう。それは無意識下に降り積もる「記憶」として層を成します。山市は、その層を幾重にも重ねることで、都市と辺境の間に広がる空間を行き来しました。都市も自然も辺境も、何もかもを遠くへ眺めるその映像は、「記憶」の種へ思いをはせることを拒絶するような取り組みなのかもしれません。
そして、小須田が同じく幾重にも層を重ねるように撮影した樹肌は、ひとつの自然の形である樹木との対峙した行為の結果として立ち現れます。樹々のすがたを「記憶」し、それを対象物として捉えるあり方は、自然を人間の枠組みの外側に置いたスタンスが見えてきます。極限まで自然に近接して行ったときに立ち現れる輪郭は、このようなかたちをしているのかもしれません。

都市で育った人が見る都市と、森林に囲まれたような辺境の地で育った人が見る都市は、まるで違ったすがたを持って現れるでしょう。その逆もしかりです。この写真展「Baum! vol.00」では、上に書いたような、思考の根本を決めてしまうような、そして層のように降り積もっていく「記憶」を映像化してみよう、という試みから始まっています。目の前に広がる光景や、そこに流れていた時間、多くの音ーそういったすべてのものを捉えようとすることで、「記憶」は輪郭を持って写真の中に立ち現れてくるのです。


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